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2014年8月

2014/08/31

安倍首相の「戦犯」追悼

安倍首相が高野山にある「昭和殉難者法務死追悼碑」の法要にメッセージを送ったそうだ。

この追悼碑は連合国による戦犯処罰を「歴史上世界に例を見ない過酷で報復的裁判」として、戦犯の名誉回復と追悼を目的に1994年に建立されたもの。

首相のメッセージは「今日の平和と繁栄のため、自らの魂を賭して祖国の礎となられた昭和殉職者の御霊に謹んで哀悼の誠を捧げ、・・・今後とも恒久平和を願い、人類共生の未来を切り開いていくことをお誓い申し上げる」といった内容。

彼の発する言葉には何の意味もないのだから、「恒久平和を願い」など、平和のために軍備を増強し、平和のために武器を世界中に売りさばき、平和のために外国の軍人の教育も引き受け、平和のためにODAの名で軍事援助を行い、平和のために戦争をするといったことを意味すると受け取った方がある正解だろう。

それはさておき、この追悼碑を建立した人々や安倍首相の知的あるいは倫理的頽廃を指摘しておかなければならない。

連合国による戦犯処罰、つまり東京裁判を「報復的裁判」とするのは、その限りでは正しい。東京裁判もニュルンベルク裁判も、戦勝国による敗戦国に対する一方的裁判だったことは間違いない。

だからこそ私たちは昭和天皇や東条英機や岸信介などの戦争責任を追及しなければならないし、非戦闘員に対する無差別大量殺戮である原爆投下を命じたトルーマン大統領の戦争責任も追及しなければならない。

しかし安倍首相たちは、単に東京裁判を否定するだけで、戦争責任については全く言及しない。これは全くの思考停止なのか。それとも数千万の死者を生じさせようとも、その責任など考える必要などないと考えているのか。

2014/08/25

湯川さん人質事件

湯川さんが「イスラム国」に拘束された事件は、まだ状況の不明な部分が多いが、問いただしたい点が一つある。

2004年、イラクでボランティア活動を行っていた高遠さんたち3人の日本人が人質になった事件があった。その時は自民党国会議員や一部マスコミが「自己責任」を声高に叫び、被害者やその家族に対する非難を繰り返した。今回はそうした声が全く聞こえてこない。いったい「自己責任」論者はどこに行ってしまったのだろう。

救出費用を請求すべきだとまで言った石破などは、今回は何も言わないのだろうか。彼らが「自己責任」論を撤回したとか、ましてや悔い改めて高遠さんたちやその家族に謝罪したなどという話は聞いたことがないのだが。また、同じく高遠さんたちを非難していた読売新聞や産経新聞は、湯川さんを攻撃しないのだろうか。

高遠さんたちが自衛隊の派兵を批判したから「自己責任」を問うたのだろうか。今回の湯川さんは「民間軍事会社」の利益のための活動中だったから「自己責任」を問わないのだろうか。

por Andrés

2014/08/24

従軍慰安婦問題の本質

従軍慰安婦問題が、韓国政府の姿勢、日本政府の対応、在米韓国人団体による碑の設置、そして朝日新聞による誤報取り消しなどであらためて論議の的になっている。そこでの争点の中心は、従軍慰安婦は旧日本軍によって強制連行されたものだったのかどうか、ということだ。中には「従軍慰安婦はどこの国の軍隊にもあったこと。なぜ日本だけが非難される」といったような意見もあるが、もっとも大きな論点は「強制性」である。しかし議論の中で忘れられている、あるいはあえて無視されていることが二点ある。

一つは、日本は敗戦時において大規模な文書類の焼却・廃棄で組織的に証拠隠滅を行ったということだ。これはもちろん歴史の隠蔽であり捏造にもつながるものだが、同時にこれによって日本は他国からの批判に対して反論が困難になってしまったということでもある。つまり、「強制性」はなかったと主張する人々は単に証拠物件の不在によってそれを証明することできなくなったということだ。元従軍慰安婦の人々が「自分たちは強制的に慰安婦にさせられた」と主張しているのに対して、「強制性」を否定しようとする側は、「強制性」を示す証拠がないというだけでは全く説得力を持たない。積極的に「強制性の不在」を示す証拠、あるいは「明確な任意性」を示す証拠を挙げる必要があるのだ。挙証責任はあくまでも日本側にある。それが証拠隠滅を行った側、権力を持った側の負うべき責務だ。

もう一つは、旧日本軍に最も極端に現れていることだが、「強制性」は「軍」の本質的属性だと言うことだ。徴兵制は勿論だが、志願兵制であっても何ら本質に変わりはない。自己の命を危険に晒すことを躊躇しない人間はほとんどいない。それを可能とするのは、上官の直接的暴力や軍法会議のような組織的暴力、あるいは親族への圧迫といった間接的暴力などの強制の存在だ。さらには学校教育、情報、日常生活のなかで常に繰り返されている国家幻想への取り込みも。

従軍慰安婦問題で「河野談話」を批判する人々は、挙証責任を果たしているだろうか。

従軍慰安婦問題で日本の責任を認める人々は、「軍」の本質を批判する視点を持っているだろうか。

por Andrés

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