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カテゴリー「映画・テレビ」の40件の記事

2014/01/28

映画「ハンナ・アーレント」

ドイツ系ユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントが、アイヒマン裁判を傍聴してザ・ニューヨーカー誌にレポートを掲載する。

アイヒマンを「悪の凡庸さ」と規定する。彼がユダヤ人ホロコーストに加担したのは、組織の一員として命令に従っただけだからで、彼にはユダヤ人への憎しみもなければ自責もない。凡庸な人間が思考を停止したときに巨大な悪が生み出されるのだ。ユダヤ人指導者たちの中にもナチスに協力した者がいて被害が拡大したが、これも同様の思考停止から来たものだ。

ハンナに対して、ユダヤ人への裏切り、ナチスの手先だといった激しい非難が、特にユダヤ人たちからあげられる。

ハンナは応える。私はユダヤ人という一つの民族を愛したことはない。友人を愛するだけだ。人間は思考によって知識を得るのではなく、善悪や美醜の判断ができるようになる。思考が人間を強くするのだと。

ハンナ・アーレントの言葉は知識人に向けられている限りは鋭く有効だろう。知識人たちが知識をもてあそぶだけで本質的思考を放棄している姿を、私たちは嫌になるほど目にしてきたのだから。しかし彼女の言葉は決して「大衆」には届かないのではないか。少なくともこの映画の中では、ハンナ・アーレントは何故人々が思考を停止するのかを明らかにしようとしてはいない。そこを追究しなければ、彼女の言葉は高慢さを露わにした非難にしか聞こえない。

せっかくの素材を生かしきれず、表面的なものに終わってしまった作品と感じた。

por Andrés

2013/12/24

映画「ブランカニエベス」

原題 "Blancanieves"(白雪姫)

モノクロ、サイレント映画

人気闘牛士アントニオの娘として生まれたカルメン。母は彼女を出産した時に死に、継母はカルメンを女中同様に扱う。また闘牛で障害者となった夫アントニオを屋敷2階の部屋に監禁して、自分は贅沢三昧の暮らしを送る。ある日カルメンは継母から禁じられていた2階に上がり父を発見するが、怒った継母はカルメンを殺そうとする。何とか逃げ延びたが、記憶を失ったカルメンは小人の闘牛団に救われて見世物巡業に加わり、やがて女闘牛士としての才能を開花させる。しかしセビージャ闘牛場での大舞台で継母から差し出された毒リンゴを食べて死んでしまう。

スペインでも廃れつつあり、カタルーニャのように禁止する地域も出てきている闘牛。日本ほどではないにしても、差別用語の自主規制と同様の発想から来るのか、小人の芸能世界からの排除。こうしたことに対する皮肉も込められた作品なのだろうか。

グロテスクな場面もあるが、白黒サイレントの手法で救われている。

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これから観る予定のある方は、以下は読まないでください。

カルメンは棺桶に入れられ見世物にされる。死体には仕掛けが施されていて、操作すると上半身が起き上がるようになっている。お金を払った者はカルメンにキスができ、時々小人が操作してキスした者を驚かせ喜ばせるのだった。

童話「白雪姫」のパロディにもなっている。

por Andrés

2013/12/14

映画「朝食、昼食そして夕食」

原題 "18 Comidas"(18の食事)

サンティアゴ・デ・コンポステーラの街に暮らす様々な人々の食事風景を通して人生模様を描いている。

老夫婦の貧しい食卓、サラリーマン家庭の忙しない朝食、彼女を迎えようと張り切って作る食事、昔の恋人とのぎこちない昼食、同性愛者ペアが兄を迎えての気まずい昼食、ライブハウス経営の父子が職場で食べる中華弁当の夕食、しゃれたレストランでの別れ話をする夕食、誕生パーティー。しかし食事は主役ではない。特別なメニューやユニークな食材、ガリシアの名物料理が登場するわけではない。ありふれた食事のなかで繰り返されるありふれた日常と、大きな岐路になるかもしれないちょっとした変化。

それぞれ、続きは各自で想像して、と私たちの前に物語はそっと置かれる。

2013/09/06

映画「メキシカン・スーツケース」

スペイン戦争時に3人の写真家ロバート・キャパ、ゲルダ・タロー、デヴィッド・シーモアが撮影した写真のネガが第二次大戦初期に行方不明となり、2007年にメキシコで発見された。これらのフィルムが辿った年月を追ったドキュメンタリー映画である。3人の写真家に関わった人々やフィルムと同じようにスペインからメキシコに逃れた人々へのインタビューを一方に並べ、他方でスペイン戦争を生きた人々の孫の世代が戦争や戦後のフランコ独裁の中で死んだ祖父母の遺骨を収集する運動をはじめている様子を描いている。

隣人どころか肉親までもが敵味方に分かれて戦ったスペイン戦争。それゆえ戦後70年以上を経た現在でもスペイン人たちはあの戦争のことを語り辛い、語れないと言う。マラガの語学学校で担当してくれた20代の先生たちも言っていた。スペイン戦争を迂闊に話題にすることはできない。親戚の中にフランコ派だった者もいれば共和派もいるし、友人の祖父母もどちら側だったか分からないのだからと。

この映画は、だからこそ過去を常に思い起こし、繰り返し過去を問い直す必要があると言っている。これはスペインに向けられた言葉であると同時に、日本にも突きつけられるものだろう。歴史を覆い隠し、忘れ、改竄しようとする人々が声を高くしている現在なのだから。

新宿シネマカリテで10:15からと20:50からの2回上映中。

por Andrés

2013/08/03

映画「クロワッサンで朝食を」

エストニア人の女性アンヌが、老母を看取ったあと、パリで同郷の偏屈な老女フリーダの家政婦となる。老女は勝手気ままに生きてきたためか、友人もなくパリのエストニア人社会とも縁が切れている。唯一彼女を気にかけてくれているのは、元愛人で彼女が資金を出してあげたカフェの経営者ステファンだけ。意地の悪いフリーダの仕打ちでアンヌは辞めようとしたこともあったが、次第に打ち解けて行く二人。ある日、ステファンに冷たい言葉をかけられて落ち込んだフリーダを慰めようと、アンヌはフリーダの古いエストニア人の知人たちを招く。フリーダも浮き浮きと彼らを迎えるが、アンヌが呼び集めたから来たのだと知り、更に彼らが昔のことでフリーダを非難しはじめたため、彼らを追い返し、アンヌにも出て行けと言ってしまう。我慢の限界を超えたアンヌは出て行くが、翌日になって最後の別れを告げようと訪れたアンヌを、フリーダは「ここはあなたの家よ」と言って迎え入れる。

自由に生きてきたフリーダの孤独。子どもたちが独立し老母が逝ってしまったアンヌの孤独。二人の和解、友情の芽生え、あるいは新たな家族の形成を暗示したかのような結末だが、そんなに楽天的な「その後」を期待できるとは思えない。

二人の女優の存在感だけで持っている小品、といったところが妥当な評価ではないか。

金曜日の夕方で映画館は満員だったが男性客は5パーセント程度と、極端に偏っていた。

por Andrés

2013/07/18

映画「偽りの人生」

原題 Todos tenemos un plan
2012年 アルゼンチン・スペイン・ドイツ合作
監督 アナ・ピーターバーグ

アグスティンは医師としてブエノスアイレスで妻と裕福な暮らしをしている。そこに長く離れていた一卵性双生児の兄ペドロが訪れ、末期癌であることを告げて自分を殺すよう懇願する。アグスティンは困惑するが、ふとしたことで兄を殺し、自分が死んだことにして、ペドロになりすまして人生をやり直そうと考える。デルタ地帯、少年時代を過ごしたティグレへ帰った彼は、ペドロが関わっていた犯罪へ巻き込まれていく。アグスティンの死に疑問を抱く妻。疑惑の眼を向ける幼馴染み。愛し合うようになる女。弱虫だったアグスティンは粗野なペドロを演じる中で新しい自分を見つけてゆく。
一卵性双生児とはいっても中年になるまで全く違う人生を送った兄になりすますなど、筋の運びに相当無理があり、サスペンスとしては説得力がない。しかしティグレの閉ざされた狭い社会と暗い景色がアルゼンチンの空気をよく伝えているように思える作品だ。

2013/02/24

映画「悪人に平穏なし」

原題 No habrá paz para los malvados

2012年ゴヤ賞6部門受賞のスペイン映画。

落ちぶれてしまった刑事が主人公。酒浸りの毎日を送っていた主人公は、ある夜、閉店後のクラブで酒を飲み些細なことで3人を射殺してしまう。逃げた目撃者を追ううちに、テロ組織に行き当たる。ついに目撃者も含めたテロ組織の全員を射殺するが、彼自身も殺されてしまう。

2004年3月11日にMadridで起こった列車爆破事件を背景とした作品だが、ここでは主人公の手でテロは未然に防がれたことになっている。

それにしてもこの映画は何を言いたかったのか。最初の殺人はおよそ動機が薄弱。酒を飲んでいたとは言ってもそんなに酔ってはいなかったし、揉め事とも言えないほどのことがあっただけ。動機は些細であればあるほど良いと監督は考えたのかもしれないが。その後の主人公は、ただただ自分の犯行を隠すために目撃者を消そうとしているだけ。たまたま相手がテロリストだっただけで、平凡な市井の人だったとしても主人公の行動に変わりはなかっただろう。

目撃者をを追い詰める過程が見せ所のはずだが、そこにもこれといった目新しさもなければ、観ているものを強く惹きつけるものもない。

ゴヤ賞を受賞しているが、どこに価値があるのかわからない作品だった。

ちなみに、邦題は原題を直訳したようなものだが、原題では「悪意人たち」と複数になっている。ということは「悪人」はテロリストなのか、それともテロリストと主人公の両者を指しているのだろうか。

por Andrés

2012/10/08

映画「ヴィオレータ、天国へ」

ラテンビート映画祭でチリ映画「ヴィオレータ、天国へ」(原題 Violeta se fue a los cielos)を観た。チリのフォルクローレ歌手・音楽家ヴィオレータ・パラ(1917~1967)の生涯を描いた作品。極貧の幼少期からはじまり、歌手・音楽家として認められた後も経済的に、また男性関係で不遇なことの多かった人生をその歌と共に追っている。

テレビ番組でインタビュアが彼女をからかうような場面を随所にはさんで、当時のチリ社会の雰囲気や彼女の姿勢が伝わってくる。「失礼な質問でしょうが、あなたにはインディオの血が流れていますか」と訊かれて、「何で失礼なんですか? 母はインディオです。残念なの白人と結婚したことですが」と答える場面のように。

ヴィオレータは自殺してしまうのだが、その前年に「人生よありがとう」Gracias a la vida を発表している。最も描いてほしかったところなのだが、この映画はそこに触れていない。

他にもいくつか不足を感じる部分があったが、ヴィオレータの歌を更にじっくり味わいたいと思わせる作品であった。

por Andrés




2012/05/14

キューバ映画 4作品

先日、2日間でキューバ映画4作品を観る機会があった。

「永遠のハバナ」「グァンタナメラ」「低開発の記憶」「ハバナステーション」。概略と感想をまとめて載せる。

  「永遠のハバナ」 原題 "Suite Habana"
2003年のキューバ、スペイン合作映画。
ハバナのある一日、夜明け前からの24時間の普通の人々の暮らしをたんたんと描いたドキュメンタリー風作品。
母親を早くに亡くしたダウン症児とできるだけ共に過ごす時間を持とうと努めるその父親、祖父母。 昼間は左官見習いとして働きながら夜はバレリーナとして活躍する20歳の青年。 病院で作業員をしながら夜は友人とクラブに行って女装して歌う30歳の男。仕事を終えるとディスコで若い娘を探す靴屋。 退勤後に教会でミサに参列してからナイトクラブでサックスを吹く保線工。ボランティアでピエロを演じることもある機内食社員。 マイアミに亡命した恋人と結婚するために出国する無職の男。ピーナッツの立ち売りで生活し、夜は絵を描いて過ごす独り暮らしの老女。
何も特別なことは起こらず、喜怒哀楽もさざ波ほどで人々の表情は微かに変化を見せることがあるだけ。科白はない。
白黒の画面に懐かしい Habana Vieja で繰り返されているだろう日常が静かに映し出され、そこから「生活」 への監督の温かい視線が確かに伝わってきた。

 

「グァンタナメラ」 原題 "Guantanamera"
1995年のキューバ・スペイン合作映画。
ハバナからグアンタナモに帰省中に亡くなった伯母の遺体を、姪のヒーナは葬儀公団幹部の夫の助力でハバナへ運ぶ。 しかしガソリン不足のため各県の葬儀公団の車を乗り継ぎながら運ぶことになる。長距離トラックの運転手マリアーノは、 大学教授だったヒーナの授業に出ていたことがあり彼女にあこがれていたが、今は町ごとに愛人がいて仕事の途中で楽しんでいる。 ハバナへの道で何度も出会ううちに、二人は愛し合うようになる。
セリフは当然キューバの発音でしかも早口、字幕は英語。それでもわかりやすい筋のコメディだったので十分楽しめた。
 
「低開発の記憶」 原題 "Memorias del subdesarollo"
1966年制作のキューバ映画。
1962年のハバナ、高級住宅に住むセルヒオは、妻がマイアミに去ってしまっても、 特に革命への同伴意識があるわけでもなく先の見通しもないままキューバに残る。 若い娘を誘って性的関係を持ったりしながらほとんど無為の暮らしを送っている。やがて娘の家族に強姦罪で告発されて裁判にかけられ、 無罪にはなったが自身でも何か腑に落ちなさを拭いきれない。
革命からキューバ危機にかけての緊張した時代でも、皆が革命と反革命、社会主義と資本主義、 カストロとケネディというような二項対立に囚われていたわけではなく、 どっち付かずの立場や二項対立が眼中にない暮らしを送る人々など、さまざまな現実の姿を提示している作品。
今では懐かしささえ感じさせられてしまうようなヌーベル・バーグ風の画面や展開。少々退屈ではあったが、日本の西からも東からも 「奴が敵だ。奴を倒せ」という雄叫びに喝采がこだまする現在、50年前の醒めた視線に忘れ物を気付かされた気がする。
 
「ハバナステーション」  原題 "Habanastation"
監督は題を"Playstation"をキューバ風に発音した "Pleisteichon" としたかったが、 ソニーから許可が出なかったので上記のようになったとのこと。
2011年のキューバ映画。
ハバナの閑静な住宅街ミラマールに住む小学生のマジートは、父親が有名なミュージシャンで海外公演も多いため、 学校で一番早くプレーステーション3を買ってもらう。同じクラスのカルロスは父親が服役中で、 貧困層の住むマリアナーオ地区で祖母に育てられている。二人は学校でも付き合いがなかったのだが、 ある日マジートがマリアナーオに迷い込んでカルロスと半日を過ごすことになる。悪ガキやチンピラに囲まれ、 カルロスに世話されながら過ごすうちに、マジートは成長し、二人は理解し合うようになる。
「王子と乞食」や「ローマの休日」のバリエーションのようなよくある筋の物語だが、 キューバでも広がりつつある格差が伝わってくる。主題はあくまでも「成長」と「友情」で、 社会の矛盾を突きつめるような作品ではない。気軽に楽しめるものだった。
 
por Andrés

2012/04/27

4・28沖縄デーの前日に

4月27日、沖縄関係の二つのイベントに触れることができた。

法政大学で行われている『総合講座「沖縄を考える」』。今週は明田川融氏が講師で、『日米「同盟」と沖縄』と題して行われた。

第二次大戦中、沖縄は「皇土」防衛のための「縦深作戦遂行上の前縁」とされた。米軍の本土進攻を遅らせるための捨て石とされたのである。沖縄の米軍基地は「日本の平和憲法への保険」という側面があった、つまりマッカーサーは沖縄に十分な空軍力と原爆があれば日本防衛は可能と考えていた。しかし中国の軍事力増大にともなって、日本全体が米国防衛のため「縦深作戦遂行上の前縁」となってきているのではないか。

このような内容だった。米国にとって日本は重要な同盟国なのだろうが、それはあくまでも米国の「国益」に適う限りのことであり、対中防衛も当然その範囲内でのことだ。一方で政治的・経済的な面での米中関係の緊密化は進んでおり、米国と中国は互いに「敵」であると同時に「不可欠な存在」にもなってきている。もちろん「国益」とは「国家の利益」であって「国民の利益」ではないし、経済的利益追求も企業のであって人々のではない。

沖縄の基地問題を考えるとき、中国を仮想敵国とした日本防衛上の必要を説く人は多い。日本政府はそれを明言しているし、辺野古移転に反対する人たちでさえ内心は中国の脅威を前にして沖縄の米軍基地撤去や大幅削減を要求するのを躊躇している。これは尖閣をめぐる石原都知事の発言やそれに対する反応で明らかだろう。

しかし私たちと中国の人々とは敵ではない。日本の企業と中国の企業を見ても、敵対関係もあれば競争関係もあれば協力関係もある、というにすぎない。こうした多様な関係があるという当たり前の状況を敵対関係と見てしまう石原のような単細胞的発想、あるいは敵対関係と見せかけてしまおうという詐術的手法に私たちも中国の人々も乗せられてしまっているのではないか。

「そんな甘っちょろいことを言ってると尖閣は中国に取られてしまう」という声が方々から聞こえてきそうだが、領土問題の解決という視点そのものが「国益」という幻想に囚われている証拠だろう。「国益」から考えている限り、領土は力関係で決着するというところにしか至らないし、その先にあるのは軍備拡張競争であり、最終的には戦争であって、私たちにはいずれにしても生活や生命の破壊しかもたらされない。

 

青山のイメージフォーラムで上映されている『誰も知らない基地のこと』

2010年のイタリア映画。イタリアのビチェンツァ、インド洋のディエゴ・ガルシア、沖縄の普天間を主な対象としたドキュメンタリー。
ビチェンツァの米軍基地増設反対運動に触発されて製作されたものだが、普天間が最も大きく扱われている。各地の基地周辺住民、米軍人、国防総省関係者、さらにチョムスキーなどへのインタビューと何人かの米大統領の演説映像で構成されている。この作品は、世界各地の米軍基地は「帝国」の拡張・維持と軍産複合体の利益拡大をはかるために設置されており、東西冷戦終結後はそれを合理化するために麻薬との戦い、テロとの戦い、イラン・イラク・北朝鮮と次々に敵を作り上げてきたのだ、と主張する。
内容に特段の異論はないが、主張にも手法にも新しさはなく、作品としては平凡である。

por Andrés

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